科学家のテラス 7
Reflections from an Amateur Scientist 7

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

▼テクノの総本山”Akihabara”へ行く
1990年代初頭。「ソ連」からやってきた生物物理学者Aさんがドライ・ラボに加わったことで、英語によるコロキウムが始まった。私は当初とても苦労したのだが、しかし毎週そんなことをやっていると、なんとなく「勘」みたいなものがついてくるから不思議だ。Aさんの研究は、私の専門とはだいぶ違う──いや正直言って関係ない──ものだったが、彼と教授の白熱する議論を何度も聞いているうちに、なんとなく中身が分かるようになってきたのだ。気づけば、「知性をシミュレートする人工知能を作るためには、学習機能を持ったニューラル・ネットワークがやっぱり有望★1なのかな」などとぼんやりと思うようにすら、なっていた。しかし自分からそのハイレベルな議論に加わることはなかった。そんな資格が自分にあるとは、とうてい思えなかったからである。

そんなある日のこと、私が大学の廊下を歩いていると、笑顔のAさんが小走りに近づいてきた。彼は大男であるから急接近されると圧迫感がある。そもそも、「ドライ・ラボ」の時間以外で彼と会うことはほとんどなかった。だから私はにわかに緊張した。

「ど、どうかしましたか?」 私は、おどおどと拙い英語で問うた。彼は身振り手振りを交えながら、嬉しそうに話をする。最初は何を言っているのかよく分からなかったが、どうやら、1)自分の娘にキーボード★2を買ってやりたい、2)しかし何を選んで良いか分からない、3)自分は「かの有名なAkihabara★3」に行きたい、4)あなたは「専門家」だからつきあってくれないか、ということのようだった。その頃の私は音楽が好きで、キーボードで変な曲を作って遊んでいた。研究室の自己紹介の時も、そんなことを口走ったのだった。

しかし、自力で外国人のアテンドなんてできるのか? 私は怯んだが、まあ「得意分野」でもあり、また彼の笑顔に押し切られ、「かの有名な秋葉原★4」に随行することを承諾した。

その週末の午後、都営バスに乗り込み、我々が目指したのは「ラオックス★5楽器館」であった。バスの中で私が「どんなものが良いのですか?」と尋ねると、彼は「まだ子供なので、基本的なものを」と答えた(たぶん)。店に着き、店員に聞くと、1万円くらいのカシオのキーボードを二つ見せてくれた。色々な音色があるし、簡単なリズム機能もついていて、どちらも悪くない。Aさんは両方を自分で少し弾いてみたあと、一方を指さした。商談成立。案外簡単に目的は達成されてしまった。彼は何度も私に礼を言い、キーボードを大事そうに抱えながら、白金にある外国人向けの寮へと、帰って行った。

そしてこの日を境に、私とAさんの関係のみならず、私のラボでの立場も、大きく変貌していくことになったのである。(つづく)

Endnote:
1 しかし、ちょうど時代は「第二次人工知能ブーム」が去った頃にあたる。理屈ではさまざまな認識ができるはずのニューラル・ネットワークであったが、今から考えると、当時はとにかく「データ」が足りなかった。この現実世界についてのデジタル化された膨大なデータが存在して初めて、この種の研究は進むのだ。インターネット時代の到来こそが、ディープ・ラーニングに再び光を当てたと言える。

★2 キーボード(keyboard)は「鍵盤」と訳されるが、コンピュータ等の手動入力装置としてのそれと、ピアノやオルガンに似た外見を持つ電子楽器あるいは単にミュージック・シンセサイザのことを指す場合がある。ここでは当然、後者の電子楽器のことを意味している。

★3 当時の秋葉原電気街は、「安売り家電」や「電子部品」を売る街から、急速に「パソコンの街」へと脱皮しつつあった。といっても「メイド喫茶」などはまだ存在せず、飽くまで先端的なテクノロジーを扱う、硬派な街として認知されていた。そう、90年代前半の日本はまだまだ好景気に浮かれ、”Japan As Number One”の余韻も残っていた。そんな、技術で世界を牽引するニッポンの、テクノの総本山”Akihabara”は、今とは違う意味で光り輝いていたのである。

★4 「秋葉原」は、東北本線(京浜東北線等)と総武本線(総武線等)が交わるJR東日本の駅名、ならびにその周辺の地域を指す地名である。現在の正式な町名は「外神田」や「神田佐久間町」などであり、「秋葉原」という地名は台東区の一部に残るのみである。この土地の名の由来はなかなか興味深い。江戸時代、天竜川の上流に位置する「秋葉神社」は、「火伏せ(=防火)の神」として全国的に有名であった。とりわけ江戸は火事が多かったので、「秋葉権現」などと呼ばれ篤く信仰された。一方、佐久間町には材木問屋も多く、一旦火災が発生すると甚大な被害が出たため、「佐久間」を「悪魔」と読み替えることすらあったという。明治に入り新政府は、その場所に防火のための広い空き地を作り、「鎮火社」を祀った。この社は「秋葉神社」とは関係なく建てられたものだったのだが、人々が「これは秋葉権現が勧請されたに違いない」と思い込んだ結果、「秋葉原(あきばっぱら)」などと呼ばれるようになった。すなわち、最初から「勘違い」で名付けられた街だったのだ。

★5 戦前から続く電器商をルーツとする、秋葉原で発展した元・大手家電量販店チェーン。1970年代半ばに「ラオックス」の商号を使いはじめ、90年代には全国の都市に支店を設け、有名チェーン店として知られるようになった。特に、1990年4月に秋葉原に開店した「ザ・コンピュータ館」は、本体から周辺機器、さらにはさまざまなPCパーツやソフトウェアに至るまで、日本のパソコン関連市場を代表する旗艦店であった。そこには最先端の技術に群がるマニアや、さまざまなメーカーの技術者、クライアント企業の担当者などがいつも溢れかえっており、いつ行っても独特の熱気を帯びていたことが忘れがたい。いわば「常設の見本市」であったのだ。しかし、パソコンに傾斜しすぎたことなどが災いし、00年代半ば頃から業績不振に陥り、2009年には中国資本の傘下となった。現在は家電量販店というよりも、外国人旅行者向け免税店チェーンと呼ぶべき業態となっている。