映画が観られる空間と私たちの記憶
A Place of Seeing Movie and Our Memory

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

この夏に旅したイギリスの湖水地方のタウンには、小さな映画館があった。この地方特有の石で作られた建物の壁にはハリー・ポッターの主人公を演じたD・ラドクリフの最新作のポスターが貼られてあった。私は入り口に書いてある「ムービーと食事」の値段設定に戸惑い、ディーナーショーや結婚パーティーのように、観客は丸いテーブルで食事をしながら、歌やトークやカップルの出会い映像の代わりに映画が観られるのだろうかと勝手に期待した。だがそうではなく、私の楽しい想像はすぐさま否定された。映画を観て食事をするのはデートや家族行事の定番で、それが一つの建物の中で、しかもセット値段でできるのであればたしかに便利である──としぶしぶ納得しつつ、映画観るのはあきらめた。そして勘違いの期待と、勝手な落胆だけが旅の思い出として残った。

映画を観る形態と概念は、時代にそって多様化してきた。映画は映画館という専用の空間で大勢が一緒に観るものから、テレビ放送の時間枠の中でCMを挿みながら観るものになった。グローバルなシネコンが隆盛なおかげで、多くの国の映画館で誰もが訳知り顔で振る舞えるようにもなった。また私空間にDVDを並べておくことで自分の経験を可視化することもできるし、クラウドからダウンロードして自分のハードディスクで所有することもできるようになった。資本主義的配給システムから落ちこぼれる映画をすくい上げるべく各地・各種の映画祭が開催され、観客の要求により積極的に応じるべく共同体上映が企画されている。

しかしながら脳の深層部分に埋め込まれた記憶のように、映画を観る空間に対する私たちの原初的感覚は変わっていないような気がする。前面に見える四角いスクリーンがワイドサイズになり、イスがより豪華になって、またそれが映像に応じて動き、3D眼鏡をかけた私たちの感覚を様々な匂いが刺激するようになっても、本質は変わらない。

プラトンの洞窟のような暗闇が望ましいし、目線を固定されているのは私だけではない。みんながスクリーンに向かって一列で座り、光が演出するファンタジーに意識を集中させる。その体験を他の人たちと空間的・時間的に共有する感覚こそがまさに映画を観ることであり、集団行為を前提にした個人的な体験なのである。

この空間の様子が崩れるのは、多分バーチャル・リアリティーの3次元で展開される物語に私たちが取り込まれるときだろう。しかしそれを私たちが映画と呼びつづけるか否かは定かでない。