地下鉄の風景
Scenes from the Subway

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

この冬、中国の南京と上海で2週間を過ごした後、韓国・ソウルの街を歩き、シンガポールへ渡った。街並の看板の文字はそれぞれ違うのに、どこの国の地下鉄でも同じ風景が見られる。多くの人が携帯を見つめていた。中国では「低頭族」という。私は日本ではLINEを使うが、中国人とはWeChat、韓国人とはKakaoTalkでやり取りをする。それぞれ何がすごくておもしろいのか比べることはできても、結局これらは同じ文法で動いているし、私たちは同じようなビジュアルのアイコンを頼りに使いこなせるようになる。

どのOSの電話を使っているか、どのアプリを見ているかに関係なく、端末の画面を通して、人々はその肉体がおかれている場所から意識が別の空間へ分離され、二つの次元で存在する。そしてそのような行為そのものが私たちに同じような外見や態度として現れ、どの国の地下鉄でも同じ風景を作り出すのである。

しかしながら今の社会はそれだけでは満足しないらしい。携帯の端末を持てない人、それを見つめるのに疲れた人、バッテリーが切れている人などには別の選択がある。まだ先端な車両に限る話ではあるが、日本では地下鉄のドアーの上に、中国ではドアーの側面に、韓国では天井の真ん中にスクリーンがぶら下がっている。今日のニュース、天気、地下鉄利用時のエチケット、新商品情報、ヒット中の映画広告など、鉄道会社の一方向的な映像コンテンツが映し出される。国によって具体的な内容は異なるが、そのめざす方向はほぼ同じだろう。

私の視線はどこの国にいようとデジタル画面を求めてさまよう。自分の手のひらに収まる画面、制限された空間で共有される画面、街の風景としてきらめく大型スクリーン。私の目は乾燥した涙であふれ、首の筋肉は悲鳴を上げる。しかし私の感覚のどこかはそれらにフィットし、安心する。また文字の違いを越えたビジュアル情報のリテラシーを確認し楽しむ。私はこれが自分だけの経験ではないこともわかっている。そして私たちは、同じ風景が内在する未来の発展も現在の矛盾も国を越えて共有していることを確認するのである。