空間は誰のもの?──街のスクリーンが語ること
Whom Does Space Belong to? – What Screens in the Streets Tell

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

泊まったホテルの窓からバンコク市内の風景が広がっていた。熱帯の大地に描かれるバンコクのスカイラインは訪れるたびに有機物のように変化している。より広く、より高く。窓越しに見おろす私の視線はパヤータイ通りの終着点に光る大型スクリーンをとらえた。ホテルエントランスの向かい側の道路にも、大型スクリーンが三層になって光っている。

スクリーンをもっと見たくて、私はバンコクの繁華街を歩きまわった。プラットホームをうろつき、行く当てもなく電車に乗った。すでに見慣れた風景だと感じていた街のスクリーンだが、そこにはさらなる違和感が加わっていた。スクリーンがしゃべっている。視線を逃がす私の意志に関係なく、音が私の耳を追ってくる。分身術のように同じ画像を見せる複数のスクリーンは異次元空間を作り出している。道路沿いのスクリーンを、渋滞した車から人々が見つめていた。

20世紀初頭、ネオンサインは都市の夜を変えた。理髪店のサインとして始まった人工の光は、夜の空間に対する人々の感覚をも変えた。そのネオンサインがノスタルジアになり、より先進的な光になった現在、都市の空間には昼夜関係なく光るスクリーンが増えている。

日本語のCMが流れるバンコクの電車で、そのスクリーンを見つめる人を数えた。ソウルの街角に立ち、大型スクリーンに流れる地方自治体の広告を分類してみた。シンガポールのブランドショップの外壁に流れるファッションショー映像を見ながら頭の中でスクリーンの大きさを計り、新しく引っ越したソウルのアパートのエレベーターのスクリーンから地域の情報を得た。

私は見せられ、聞かされている。自分のテレビは自分で消せるが、パブリックな空間で見せられる映像に私はどう関われるだろう。空間は誰のものか。私に電車やエレベーターのCM映像を拒否する権利はあるのか。スクリーンの空間はその場所に関わる人々の必要性がもたらす必然的な結果だろうか。街角で見られる映像は誰かが流しているものである。そこには見せられる人の主体性はない。暴力のように映像が迫ってくる。

人間をめぐる空間の変化とはそれ自体、人類文明の歴史でもある。人間は、神が作った自然空間の中に人間的意思の空間を、徐々に、確実に作り上げてきた。韓国の僧侶タンホは、物質と精神はいつもくっついていくのでどちらが先で後かは分別できないと言った。物質的空間がそこに生きる人々の同時代的精神性の現れであるとするなら、アジアの都会において急増するスクリーンの空間は私たちのどのような精神性を現しているのだろう。