甘いワナに飛び込む:『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』
Jumping into a Bitter-sweet Trap: Batman v Superman: Dawn of Justice

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

この手の映画を観る前はいつも自問する。このワナにはまる覚悟はできているか。

『007』のジェームズ・ボンドから始まり、『スター・ウォーズ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『ミッション・インポッシブル』、また『ハリー・ポッター』、『ロード・オブ・ザ・リング』、『セックス・アンド・ザ・シティ』、『トワイライト』などなどまで、人生の年月の記憶がこれらシリーズもののバックナンバーできざまれそうである。オリジナル小説を読みあさり、テレビシリーズと比較し、関連商品を買い続けるこの甘いワナに喜んで飛び込むかである。

また新しいシリーズの幕が開けられた。アメリカンコミックの出版社「DCコミックス」のスーパーヒーローチーム〈ジャスティス・リーグ〉の物語である。その始まりにおけるバットマンとスーパーマンが戦うという設定は、私のようにアニメーション・シリーズで失望した人々をも映画館に向かわせるほどインパクトの強いものであった。どうしてあの2人は戦うのか、そしてどのように戦うのか。

実際に観ていくつかのことを思った。まずは多くの映画やドラマが人間の幼少期の経験と記憶にあらゆる問題の原因を還元するなか、悪役のレックス・ルーサーを含む3人の主人公たちの父親コンプレックスぶりは、観客に既視感と安心感さえ覚えさせるものである。さらにバットマンとスーパーマンの2人の母の名前が同じだとわかった途端、最大の戦いをやめ、戦友になる場面を目にしては、脚本家の頭を殴りたくなるほどの虚脱感を覚える。

肝心なのはなぜ2人は戦ったかである。映画を何回思い出してもよくわからない。2人は、自分こそが必要な存在であり、相手はあれこれの理由で排除すべきであるとするが、実はレックス・ルーサーの策略による誤解であったりする。ヒーローたちは単独で登場すると格好いいのに、集団になるとなぜか馬鹿っぽくなる。これは私がアニメーション・シリーズからずっと思ってきたことである。

20世紀末頃、日本ではウルトラマンガイアとウルトラマンアグルが有機体である地球を守るために人類という生き物を抹殺すべきかどうかで葛藤した。この問題設定が正しいかどうかはともかく、子供たちは人類をひとつの相対的な存在として考える宇宙人的見方をそっと教わったのである。今回、この映画の問題提起のひとつは、ヒーロー的行為とその副作用における妥協の可能性である。正義の戦いにも負の側面がある。建物は破壊され、人は怪我し死に至らしめられる。地球人の立場と意見が問われている。しかし我々が、宇宙人であれ地球人であれ、ヒーローの出現を夢見る限り、このシリーズが何回続いてもその答えを見つけることはできないだろう。

それでも、この映画を楽しめる理由はふたつある。ひとつはバットマンとスーパーマンがどう戦うかが見られることである。そもそも宇宙人と地球人との戦いである。我々がすべきは、誰が強いかではなく、戦闘の技が交される過程をエンジョイすることだろう。もうひとつはワンダーウーマン、これ以上になく格好よくセクシーな女神である。彼女の登場は、これから他のヒーローの登場にも期待を持たせるに十分である。

アイアンマンやキャプテン・アメリカなどを集めたマーベル・コミック社の〈アベンジャーズ〉に対抗するこのヒーローたちの物語を見続けるかどうかは、とりあえず第2作目を観てから決めることにした。

*『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(ザック・スナイダー監督、2016年)