景勝と人造の入り江
The Cove of Mimetic Beauty

高橋聡太 Sota Takahashi

常磐線を乗り継いで茨城を経由して福島方面へ向かうと、日立市にさしかかるあたりから車窓に広がる海岸線の雄大な景観に目を奪われる。その沿線でもとりわけ有名なのが、五浦(いずら)海岸の眺望だ。波に削られた断崖に青々と生い茂るクロマツの緑と、湾の複雑な地形にさしこむ光が生む色とりどりの青のコントラストが特徴的な五浦の自然は、古来多くの人々を魅了してきたという。

近代日本の美術を支えた岡倉天心もその一人である。1905年、天心は五浦の地に六角堂と呼ばれる小さな庵を建てた。絶壁の岩肌を背負いつつ太平洋を眼前に眺められるこのお堂は、自然に身を任せて思索に没頭できるよう、天心自ら設計したものである。翌1906年には天心は横山大観や菱田春草らとともに日本美術院を五浦に移したこともあり、その近辺は近代日本美術ゆかりの地として美術館や史跡などが整備されている。

ふとしたきっかけでこの地のことを知り、自然も美術も楽しめるなら一石二鳥と足を運んでみたのだが、いざ海沿いの公園にもうけられた高台から六角堂を眺めてみると強烈な違和感を覚えた。そのとりあわせから事前に想像していた、故事や水墨画で描かれるような泰然とした風景とは微妙なズレがあったのだ。そのわけは、実際に六角堂に近づいてみてよりはっきりとした。あまりにも建物が新しいのである。

2011年3月11日の大地震によって引き起こされた津波を受けて、六角堂はその基礎だけをかろうじてのこし、大部分が海に流されてしまっていた。現在の五浦にあるのは、茨城大学を中心とする研究チームの尽力により、海底からサルベージされた堂の一部などを元に復元されたものであり、完成からまだ数年しか経過していない。

その上、近辺には岡倉天心の映画撮影のために再建された日本美術院のセットや、同院で活躍した画家たちの絵画や彫刻のレプリカも展示されており、その文化資源のほとんどが二次的に制作されたものだ。設置された当時からのこっている数少ない文化資源のひとつは「亜細亜ハ一な里(アジアはひとつなり)」と刻まれた大きな石碑で、皮肉にもこれは天心がとなえた「Asia is one」という理念を彼の没後に軍事的プロパガンダに利用するべくして建てられたものである。

きわめつきは、再度の津波被害を防ぐため湾内に設置された消波ブロックである。通常のテトラポッドでは景観を損なうと判断したのか、周囲の岩礁に似せて作られた模造の岩のような物体が海中から顔を出しているため、遠目に見るとさながら間違い探しをしているような感覚におそわれるのだ。

五浦に設置されている雑多な人造物には、かつての天心一行の野心や、史的遺産をのこそうとする学術的なねらい、土地の来歴をいかした観光地化の目論見など、この地に思いを馳せてきた人々の思念がないまぜになっている。震災から五年を経た五浦の奇妙な光景は、本来あらゆる史跡にのこされているはずの手垢のようなものを複層的に可視化した、きわめて稀有な事例だろう。これらがひとまとまりの歴史的な遺産として認められ、周囲の自然となじむまでには、どのぐらいの時間が必要なのだろうか。