科学家のテラス 9
Reflections from an Amateur Scientist 9

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

▼そしてエスニックな大食事会
「もちろんです」

アルメニア人の研究者Aさんは、一瞬緊張した表情を見せたが、すぐにいつもの温和な顔に戻って、そう答えた。私はあえて、彼の祖国に対する歴史的な宿敵、「トルコ」の料理店で夕食会をやろうと誘ったのである。

私はとりあえず、外国好きの友人に声をかけた。一緒にバンドをやっていた子供の頃からの友達I君。彼は今、インドで流通系企業の社長をやっている。また中国が好きだったM君。その後、北京に留学して中国人の女性と結婚し、ODA(政府開発援助)の専門家になって今もアジアを飛び回っている。ちょうどカリフォルニアでアートの勉強をして戻ってきたばかりのT君もやってきたと思う。その上、おのおのが勝手に癖の強い友人を連れてきた。あの「鉄のカーテン★1」の向こうからやってきた、中央アジア出身の、しかも「ニューラル・ネットワーク★2」の専門家に会えるということで、結局20人近くが集まったが、半分くらいは私も知らない顔だった。

たしか、店は四谷だったと思う。エスニックな世界★3に精通するM君が「ここが最高のトルコ料理屋です」と自信満々に断言するので、従ってみた。店に入ると、トルコ人の店員が笑顔で迎えてくれた。私は、「ここで国際紛争が起きたら……」と刹那、不安を覚えたが、当然、全くの杞憂であった。

何時間かがあっという間に過ぎた。何の話をしたのかはよく覚えていない。まあ、集まったのは20代前半の若造ばかりだから、背伸びをして勝手なことを語っていたのだろう。ただ、みんな、好奇心がはち切れそうな連中だったのは間違いない。そしてAさんも、普段よりなお一層の笑顔で、ずいぶんと酒を飲んでいた。

1990年前後の当時、多くの日本人は、新しい「誇りある時代」に入りつつあると信じていたように思う。追いつけ追い越せの季節は去り、日経平均株価は4万円近くにまで上がった。あのロックフェラー・センター★4も含め、世界中の不動産を日本企業が買い漁っていたのだ。

この日、トルコ料理店に集まった若者達は、そういう「バブル」と呼ばれる時代とは直接の関係がない。なにせ、ただの学生にすぎなかったから。しかし、いずれは自分も世界に打って出て、外国でさまざまな人たちと対等に渡り合うのだ、というような気概はあったように思う。そして実際、その多くが今、海の向こうで色々な仕事をしている。

しかしちょうどその頃、私が最も関心を持ち、「ドライ・ラボ」の真ん中にあったコンピュータは、考え方も原理も、すべてが「米国製」であった。当時、アップルやサン・マイクロシステムズ、またマイクロソフトなどのIT★5系の企業は、大手不動産業などと比べればかなり小規模だったが、私には、不動産がコンピュータよりも未来があるとは、とうてい思えなかった。

帰り道、私はAさんから非常に深く感謝をされた。「カミサトさんのおかげで、たくさんの友達ができました」「今度は、私がパーティーに招きたい」。そうか。そういうものか。招いたら招かれるのか。その時、自分も「国際人」になったかのような気分になったのをよく覚えている。

こうして私とAさんは、本当に「友達」になった。しかし私は、Aさんから驚くべき相談を受けることになる。もちろん友達なのだから、本音の相談を受けることもあるだろう。だがそれは、ドライ・ラボへの「不満」であったのだ。(つづく)

Endnote:
1 第二次大戦の立役者の一人、英国首相を務めたウィンストン・チャーチル(1874-1965)が、米国で行った演説において初めて使った言葉で、ソビエトを中心とする共産圏の拡大を批判する目的で語られた。「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステにかけて、大陸を遮断する鉄のカーテンが降ろされたのであります。」(W.S.チャーチル『第二次世界大戦 4 新装版』佐藤亮一訳、河出文庫、2001年、p.452)

★2 「科学家のテラス6」を参照のこと。

★3 日本ではおおむね1980年代半ば頃から、「エスニック」のブームが到来した。それは料理(ex.タイ料理の流行)やファッション(ex. スパイシーカラー)、音楽(ex.ワールドミュージックの一般化)や旅行(ex.バリ島の人気)など、多分野に及んだが、いずれも「民族的なもの」を愛好する点で共通する。背景にはさまざまな要因が考えられるが、個人的な皮膚感覚としては、冷戦体制的な空気感が薄れて消費の多様化が進むなかで、「欧米系」に飽き、「それ以外」を消費することが「先端的」と感じた若者達が増えたことが大きい、と思う。

★4 スタンダード・オイルを創業したジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(1839-1937)が中心となって、マンハッタンに開発した複合施設。1989年10月、三菱地所が、その運営会社「ロックフェラー・グループ」を買収したことで、オーナーが日本企業となった。これは米国では大きな衝撃をもって受け止められ、「米国の魂を買った」などと大きく報じられたが、その後、三菱地所は資金繰りが悪化、大半のビルを手放すことになった。

★5 Information Technologyの略。情報を扱う技術の歴史は古いものの、2000年になるまで、この省略形が使われるシーンを私は見たことがない。当時の森喜朗(1937-)首相が「イット」と発音したのが懐かしい。