カシャカシャ包囲網
Surrounded by the Casual Shooters

高橋聡太 Sota Takahashi

はじめて自分のカメラを持ったのはいつだろう。個人的な思い出をたどると、おそらく最初に手にしたのは小学校の修学旅行に持参した、いわゆる使い捨てのレンズ付きフィルム「写ルンです」だ。旅程の序盤に訪れた八景島の水族館で、さっそく観察そっちのけで撮影にのめりこんだ。水槽のガラスにカメラ本体を密着させて魚群の動きを追い、目当ての魚が接近したらファインダーを覗いて待ち伏せ、魚影が眼前をよぎると大あわてでシャッターを切る。当然ながら、ピントが合わず光量も不十分なこの試みは失敗に終わり、後日近所のクリーニング店から返ってきた現像の出来に肩を落とした。

そんな記憶が、国立近代美術館で開催されているトーマス・ルフの写真展でよみがえった。というのも、カメラの使用が許可された展示会場内には、鑑賞よりもスマートフォンでの撮影に没頭している様子の来場者が散見したからだ。もっとも、同じ「撮影」と呼ばれる行為であっても、残り少ないフィルム数を意識して息をつまらせながらファインダーを覗いてシャッターを切るのと、ポケットからさっと取り出したスマートフォンでカメラアプリを立ち上げて画面をタップするのとでは、その身のこなしや緊張感には大きな違いがある。展示されていたルフの諸作も、私たちがしばしば「写真」と一括りにしがちな視覚的再生産技術の複層性に焦点を絞り、証明写真・暗視写真・報道写真・天体写真・インターネット上のjpeg画像などを縦横無尽にとりあげて、それぞれの特性を浮き彫りにするものだった。

しかも、ルフが投げかける「写真とは何なのか」という直球の問いと、一対一で静かに向き合うことは許されない。会場内のどこにいても、カメラアプリが発するカシャカシャとした操作音とともに、否応なく他の来場者の気配がつきまとうため、自ずと思考は周囲の人々の行為にも及んでいく。せっかくの美しいプリントをスマホで撮ってどうするのか……現物があるならじっくり目で見たほうが……いや、撮影に熱心だからといってちゃんと見ていないと決めつけるのも狭量すぎる……等々、自問自答を繰り返した。

そもそもこうしたすれ違いは、普段の生活のなかでも時折自分をわずらわせていた。飲食店で料理を撮るのはアリかナシか。演奏中のミュージシャンにカメラを向けるのはどうだろう。観光地を訪れたときに同行者が自撮り棒を取り出したら、自分だったらちょっと引いてしまうかもしれない。スマートフォンのカメラは、撮るか撮らざるかの決断をあらゆる機会に迫ってくる。ゆえに、撮影と同時に何らかの意思が漏れ出てしまうことも増え、それをどこかはしたないものだと思ってしまうからこそ、自分は苛立ってしまうのだろう。

同時に、撮影願望のいわばネガであるところの「何を撮らないのか」という判断も、ある種の自己主張となってしまう。ちなみにトーマス・ルフは、今回の企画展のために受けたインタビューにて「最後にカメラのシャッターを押したのはいつですか?」という質問にこう答えている。

2003年です。家族サービスで娘の写真を撮ることはありますが(笑)、作品としてはそれが最後ですね。(http://thomasruff.jp/texts/d_interview_2/)

疑似シャッター音のサラウンドのなかで展示室内の椅子に腰をかけて逡巡しつつ、どうしても美術館内での撮影に抵抗のあった自分を説き伏せて一枚だけ写真を撮り、それをTwitterにアップして会場をあとにした。

https://twitter.com/sotahb/status/771306045503184896