破壊的想像力を再稼働する
Restart the Doomed Imagination

高橋聡太 Sota Takahashi

映画『シン・ゴジラ』の上映を封切日深夜0時の回でいち早く見終えた自分は、茫然自失していた。率直に言って、作品の出来には期待していなかった。わざわざ足を運んだ動機は、どうせ酷評されるなら他者の意見に惑わされる前に初回の上映をこの目で見届けようという消極的なものだった。物心ついたころから恐竜や怪獣に夢中になり「コウコガクシャになる」と言い張っていた自分を、もうそんなものに一喜一憂している場合じゃないぞと説得したかったのである。

しかし、過去の自分に引導を渡すどころか、上映後しばらくは同行した友人ともども絶句し、「えええ」「うう……」などのうめき声しか発せない赤子のような状態に戻ってしまった。深夜の新宿をふらついて頭を冷やし、すこし落ち着いてからは堰を切ったように言葉があふれ出し、夜明けまで感想戦を続けた。その日のうちに似たような現象がネット上に散見したかと思うと、その爆風は瞬く間に広がった。興行収入も、総監督の庵野秀明による人気シリーズの目下最新作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の52億円を上回り、本稿執筆時の2016年10月下旬現在で80億円を突破。観客動員数は500万人を超えている。

本作が多くの人々を驚嘆せしめたのは、これほどまでに既視感のある画面ばかりが配置された映画を、誰も目にしたことがなかったからかもしれない。劇中では初代『ゴジラ』を筆頭に、往年の特撮作品や岡本喜八や市川崑といった日本映画の巨匠による諸作、それらに着想を得た庵野自身の作品、さらには震災や原発事故の報道や、広島と長崎の写真や軍の資料映像といった、日本の危機を想起させる素材が虚実や新旧の別なくミックスされている。計算しつくされた編集と画面構成で目まぐるしく押し寄せてくる既知の奔流が、おそろしい量塊感を持つ未知の生命として現れるのだ。

そこで問われるべきは「オリジナル」のありかではなく、膨大な引用に刺激されて甦る観客それぞれの経験だ。1954年の生誕時に立ち返って再生し、自衛隊のミサイル攻撃にもびくともせず泰然とその姿を保つ巨大不明生物は、ちょうど化学反応における触媒のように、自身の本質を変えずに観客ひとりひとりの連想を加速させる。たとえば2011年3月11日を渋谷近辺で迎えた自分は、本作で東京が壊滅するさまを目にして、恥ずかしながら映画館で初めて畏怖のあまり落涙した。幼少時にまだ見ぬ大都会を破壊する怪獣たちに声援を送っていた自分が、大人になってから「もうやめてくれ」と劇場で祈ることになるとは思ってもいなかった。

クライマックスでは、天災とも人災ともつかぬ東日本大震災の惨禍をモチーフにした巨大不明生物が、撃退されるでも海に帰るでもなく、東京駅の丸の内側でメルトダウン後の原発のごとく凍結させられる。その体が静止する直前、ゴジラは半獣半人の修羅のような全身を奮い立たせ、東京駅の西側を睨みつける。その目線の先に、皇居が見据えられていてもおかしくない。奇しくも映画が公開された7月には天皇の生前退位の意向が報じられ、封切りから約1週間後には前例のない「お気持ち」放送が大々的に組まれた。劇中で何度も繰り返された記者会見の場面をなぞるような画面と、ともすれば政治への干渉とされかねないきわどい線を渡るその言葉に、本作の鍵を握る科学者がのこした「私は好きにした、君らも好きにしろ」の一言を思い出した。東京駅を空想上の炉心とする危機的思考の連鎖反応は、もうしばらく続くだろう。最後のカットでカメラがにじりよるゴジラの尾からは、人骨状の異形がおびただしく突き出ており、それはいたましい死者にも、生まれたばかりの命にも見えた。