科学家のテラス 10
Reflections from an Amateur Scientist 10

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

▼研究は充実。そしてAさんの意味深なひと言
週に一度のドライ・ラボのミーティングは、教授、アルメニア人のAさん、修士のHさん、そして私の四人であった。ウェット・ラボのメンバーが十数名であることを考えると、こちらは実にこぢんまりしていた。どちらもミーティングの時間はだいたい同じだから、当然、一人あたりの発話時間は、ドライ・ラボの方がずっと多くなる。毎週そんなことをやっていればさぞかし「英語によるコミュ力」がついただろうと思われるかもしれないが、正直、このミーティングで英語力がついたという気はしない★1。

一方で、「AKIHABARA探検」や「トルコ料理の会」の件★2もあって、すっかり仲良くなったAさんと私は、日常的にコミュニケーションをとるようになった。相変わらず、ときどき話が通じなくなることもあったが、「だいたい分かる」という場面が増えていった。そのことが私はとても嬉しかった。また研究者として大先輩であるAさんは、私がちょっと質問をすると、色々な研究上のスキルやヒントを快く示してくれた。ドライ・ラボ専属となった私は、教授に「結果を出せ」と発破をかけられていたが★3、Aさんの指導もあって、教授が私に示したテーマとはちょっと別の、ささやかながらも面白いトピックを見つけることもできた★4。これは、自分で「問題」を見つけて「解決」したという、研究者人生最初の、忘れ得ぬ経験となった。

そういうわけで、その頃の私は、Aさんとつるんでるように見えていたと思う。元々、ドライ・ラボとウェット・ラボの間には微妙な壁★5があったわけだが、その上、「よく外国人と一緒にいる男」ということになって、私はさらに研究室で浮いた存在になっていたであろう。しかし当時の私は、むしろそれを誇りにさえ思っていたと思う。ちょっとしたエリート意識のようなものも、あったかもしれない。だから、ウェット・ラボにいた時のような憂鬱は、すっかりなくなっていた。

そんなある日、食堂で一緒に食事をしている時だったように思う、Aさんはこんなことを言い出した。「ドライ・ラボのミーティングについてですが、議論が深まっていかないですね。メンバーは、自分の頭で考えない人です。メンバーの研究に対して、積極的に新しいアイデアを出そうとしません。どう思いますか?」

私は、ドライ・ラボのミーティングは十分に活発だと思っていたので、ちょっと面食らった。いったい彼は、誰がどう「考えてない」と思っているのだろう。Hさんのことか、私のことか。まさか教授のこと? 急な厳しい言葉に、はらわたがざわざわっとした。ちゃんと理由を聞くべきだったと、今なら思う。だが、私はつい、彼の言葉を飲み込んでしまった。たぶん、微妙に笑顔をつくり、関係のないことをぼそぼそっと言って、話を変えようとしたはずだ。私が対応に窮したことに気づいた彼は、自分の問題提起の「重大さ」を悟ったのか、その後、その話題を口にすることはなかった。

しかし、この「自分の頭で考えない人」という言葉は、私の頭から離れなかった。徐々に、あれは研究室の全員、下手をすると、日本人全てに対して向けられた言葉だったのかもしれない、などと思うようになった。

……というわけで、本連載も気づけばもう第10回。期せずして研究室での物語が飴のように伸びてしまったが、そろそろ場面転換をしないと我慢強い読者の皆さんも逃げてしまいそうだ。次回からは少し「巻いて」いこうと思う。

ただここで、一つ白状しておきたいことがある。本連載は、フィクションではないが、当時、私の周りで起きたことの「全て」を描いているわけではない。加えて、この連載を書いているうちに、当時のできごとが後から後から思い出されてきて、まるでパンドラの箱を開けたように、自分自身、ちょっと当惑している。だからこれは一種の自叙伝ではあろうが、客観的な記録ではない。この点、どうかご了承いただきたい。

そして実は今頃になって、ある重要な事件について、「起きた順番」を勘違いしていたことに気づいた。それはA氏が来るより前のことであったのに、まだ言及していなかったのだ。面目ない。次回、遅ればせながら、そのことを明らかにしたいと思う。(つづく)

Endnote:
1 その理由を今、考えてみると、教授が常に細かな文法や発音の間違いをいちいち指摘することが大きかったように思う。その結果、私はいつも妙に「英語のことばかり」が気になり、逆に議論の中身に集中しにくかった。『第二言語習得論』という言語学の一分野がある。その実証的な研究によると、外国語の習得の際、緊張しないことは大切であるようだ。その意味でこの教授は、英語の先生としてはあまり適切ではなかったかもしれない。

★2 「科学家のテラス7」「同9」を参照のこと。

★3 「科学家のテラス5」を参照のこと。

★4 詳しく言えば、「ペプチドの両端の距離が分かっている時、その間のアミノ酸の空間的配置(角度のパラメータφとψ)を解析的に決めること」であった。私はこのトピックを自分で解いたのだが、後に海外ですでに解決されて論文になっていることが、Hさんの指摘で判明した。学部生の仕事だから、そもそもたいした話ではないのだが、研究というものの厳しさを最初に感じた場面であった。

★5 「科学家のテラス3」を参照のこと。