ゴジラは日本のものだ!
Godzilla is Ours!

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

8月を炎天下のソウルで過ごし、日本に戻ってきた日、私は成田空港からそのまま千葉の映画館へ直行した。走る車の中で、以前別の映画の上映時にみた『シン・ゴジラ』の予告編を思い返した。黒い灰と赤い血の色。沈黙の映像に流れたゴジラの凄絶な叫びと悲しく美しい音楽。

映画は大ヒットし、すでにさまざまな視点から議論され、そろそろ終映を迎えようとしていた。私はそれらの情報を遮断し、なんの知識も先入観も持たずに、予告映像の感動を再びよみがえらせたかった。映画を観ているうちにふっとあることに気づいた。ここには二つの世界が併存する。一つはゴジラの世界で、もう一つは人間の世界である。

ゴジラにはいろいろな意味が持たされた。その比喩は、3・11の福島原発から、北朝鮮のミサイルや中国からの攻撃にまで飛躍した。日本語的な陰影をもって、カタカナの「シン」の意味は観客に委ねられた。水爆や原爆から恐竜や可愛いキャラクターにまでなったゴジラの原点回帰を告げる言葉なのか、人間がおかした因果の罪なのか、あるいはそのカルマを裁く神なのか。いずれにしろ、その世界は消滅と生命の色彩をもって、悲しく咆哮し、もくもく進み、破壊し、止まって、自分の時間をきざむ。日本が積み上げてきた精巧な特撮技術で撮られたそれらのシーンは美しく沈黙的で表象的である。

人間の世界はガヤガヤする。叫び、怒鳴り、おびえる。会議をし、にらみ、頑張る。3・11的ノンフィクションとフィクションがすれすれに重なる展開は、この映画にとって諸刃の剣となっている。3・11の当事者でもある日本の観客が映画から当時の真実を追究し、さまざまな場面に自分を投影し、想像することで、映画のリアリティーが生まれる。しかし一方で、3・11の呪縛は映画の結末を縛りつける。観客は選択肢のない結末に向けて、ゴジラを凍結させるべくその体にコンクリートポンプ車が血液擬固剤を突っ込むのを呆然と観ているしかない。

『シン・ゴジラ』はとても日本的な映画になっている。そしてこの映画を日本的にいたらしめた一つが矢口蘭堂という登場人物である。矢口は歴代のゴジラを堪能し、3・11を経験し、その経緯を見守ってきたすべての日本人である。そして日本人の観客は矢口蘭堂である。観客はすべてを知っている。東京湾から現われた未確認巨大生物の名前もその意味もすでにわかっている。矢口は3・11を検証する観客の現身(うつしみ)であり、日本的システムの不条理さに対して堂々と自分を主張する観客の代弁者であり、ワナビーである。

海外の観客に『シン・ゴジラ』は難しい。早口で進む会話についていくことも、物事の進め方や官僚システムを理解するのも難しい。映画の展開についていくための知識も経験も共有していない。精巧に作られた我が街が、働く建物が、自分の記憶の隅にあるいつもの場所がゴジラの尻尾で破壊され、放射熱線で焼かれるのを倒錯的な思いで見つめることもできない。映画を楽しむための具体的な仕掛けに、日本人のようには引っ掛かれないのである。よほどの字幕の工夫が必要である。

でもゴジラがいる。最も日本的なものが最も世界的なものになるのであれば、それはまさしくゴジラという存在である。釜山の海底にも、香港の地底にもゴジラはいる。しかし大勢の日本人の声が聞こえる。「外国人にゴジラのなにがわかる!」。確かにアメリカはわからなかった。声はさらに高くなる。「ゴジラは日本のものだ!」

この映画はゴジラにすべての人類に通じる普遍的な意味を持たせるまでにはいたらなかった。その理由は、初代ゴジラから積み上げられてきた日本人のゴジラへの思いと、3・11に対するいまなお鮮明な記憶の重みかもしれない。