旅するディスプレイ
Traveling Display

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

朝鮮半島をめぐって緊迫する国際情勢のニュースが連日報道されているなか、私はソウル仁川空港行きの飛行機に乗った。飛行機は揺れもなく至って平和に飛んでいた。飛行機の機種に対する知識など皆無な私にとって、自分が乗っているこの飛行機を判断する基準は座席のスクリーンである。それによっていい飛行機か、ダメな飛行機かを評価するのである。今回のスクリーンはタッチパネルもなく、ワイド画面の映像にも適応してない古いタイプであった。

2時間半余の飛行時間において、私が選んだ映画はハリウッド新作アニメーション『シング』であった。動物化されたキャラクターたちの徹底的に計算された動きや顔の表情などに対する既視感が、この映画を陳腐なものにさせている。しかし狭い座席と音漏れするヘッドフォンでも、キャラクターたちの歌声はすばらしく聞こえた。同時に頭の片隅に、いつもの疑問がわき上がる。飛行機では、映画の最初にこの映画はスクリーンに合わせて修正されていると告げられる。大きい映画館のスクリーンで見られる映像がこんなに小さくなるのだから、それはそうだろうと思いながらも、修正という言葉がいつも引っかかる。映像の左右が切られているのか、上下がちょっと伸ばされているのか。至って普通に見えるこの映像で、私は何を見逃しているのだろう。ぼうっと考えながら眠りに落ちた。

飛行機は無事に着陸し、空港付近のホテルにチェックインした。部屋に入って最初にやったことは、コンピュータと携帯電話とiPadの充電である。50インチはありそうな壁がけテレビの隣にある机の上に電源がまとめられていた。そのパネルには、いくつかの違うタイプの差し込みプラグが使えるプラグ受けが二つ、インターネットの有線プラグ、HDMIとUSBとをテレビにつなげるそれぞれの差し受けがあった。しばらくそこを見つめながら考えた。好奇心は旺盛だが知識が足りない私はそれを全部試してみた。HDMIケーブルでiPadを映し、USBを差し込み、コンピュータをつないだ。ホテルから借りたケーブルで私のメディアとつながれたテレビの画面は、もはやテレビではなく、ディスプレイ・モニターになった。ディスプレイに映されたYouTubeで『シング』をさがした。見終えられなかった映画の後半部はなかったが、グンターとロジータやジョニーやアッシュの歌を見た。

ホテルの机に並べられたメディアを見ながら、今時分、自分が映像をどう見ているかを改めて考えた。映像を見ることは、コンテンツとディスプレイと映像提供サービスにおけるそれぞれの選択とその組み合わせで成り立つ。特に近年、増殖したディスプレイはあらゆる生活の場面についてくる。映画館でスクリーンを楽しみ、家のテレビ画面で時間を確かめながら育った私は、現在、強迫症のようにコンピュータとタブレットと携帯電話を持ち歩き、常にその画面をチェックしている。街では電車にも車にもビルにもディスプレイが付き、飛行の窮屈な時間をなだめるのも小さなスクリーンである。

帰りの仁川空港で、旅客ターミナルのメイン通路を歩いた。ターミナルの中央の天井の左右2カ所から吊り下げられている横8メートル、縦13メートルの曲線の映像パネルをはじめ、表通路でざっと数えただけで、20個の大小の映像ディスプレイと40枚の電子看板が置かれてあった。

空港ターミナルでも、都市の繁華街でも、その真ん中に立って意識をそっとのばしてみる。話しかけてくる壁が、チカチカクルクル変わる看板が、私のカバンの中の映像装置が、私のまわりを囲みはじめる。これらの流れは街の風景を変えるだけではなく、人間の身体と意識にも影響をもたらす。しかしながら、人間が適応できるギリギリの速度で変化していくこの流れは、ビジネスチャンスや技術と科学の進化というような文脈で語られることを好み、人間に関してはあらゆる問題を個人レベルで喚起する。そのなかで我々がやるべきことは、まずこの様子に関するビジネスや技術的言説を人間共同体の言説に変換させることであり、またその議論を持続的に行なうことである。あるいは、私が求めているものは、ただ抵抗の悲鳴をあげている視神経に与えられるいま少しの余裕と、流れについていっている自分の主体性に対する実感かもしれない。