科学家のテラス 14
Reflections from an Amateur Scientist 14

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

▼公務員試験は「具体的」で「明確」だった
人は、何らかの理由で「具体的に考えること」ができなくなった時、窮地に陥るものだ。そういう状態にある人は、まずもって何が障害になっているのかがよく分からず、解決すべき問題が見えなくなっていることも多い。逆に、大抵の困難は、目に見えて、手触りを感じられるような、具体的な案件に落とし込むことさえできれば、もう半分以上は解決している。

私を役人の道に誘った友人「X」に、シャーマニズム的な雰囲気があったことは前回述べたが、同時に何事も「具体的に考えること」を好む、という性質も具備していた。だからまず、私に公務員試験の問題を見せることで「これは何とかなるかも」という手応えを実感させようと思ったようだ。気づけば私は、東京駅の正面にある「八重洲ブックセンター★1」の中の、公務員試験・参考書売り場に連行されていたのである。

「おお、見てみろよ。こんなのだったらさぁ、おまえならどうにかなるべ」

「こういう問題なんだね。はじめて見た」

「そうだよ、ほらおまえさあ、教養ってゆうかよぉ、昔から雑学のカタマリじゃん、ぜってぇすぐ、イケるべ」

当時の理系の公務員試験は、大きく「教養」と「専門」★2に分かれていたが、前者は、現在の「センター試験」、当時の「共通一次」に似たようなラインナップであり、あまり文系と理系の偏りがなかった私にとっては、比較的得意なスタイルであった。

「ほらほら。チャンスは活かそう。とりあえず、このあたり買っていけばいいんじゃねぇの?」

しかしこうして思い返してみると、およそ学生時代の「筆記試験★3」のたぐいは、徹頭徹尾、「具体的な課題」そのものだと、あらためて思う。若い頃に試験に苦しめられた人は多いだろう。しかし、大人になってから遭遇する問題の厄介さに比べれば、なんと単純なものか。

そもそもペーパー・テストというものには正解が存在し、また選抜試験の場合は「人間を数値化し、順に並べること」が目的だから、間違っても「びっくりさせてやろう」とか、「自分の無力を思い知らせてやろう」とか、「こいつらを騙して身ぐるみ剥がそう」などというような、「悪質な動機」を疑う必要はない。なんと平和な世界。「試験に強くても、社会に出て役に立たない奴は多いよ」、などと言われ続けるのも、むべなるかな。

というわけで、私はあっさりと友人Xの思いつきに巻き込まれ、こともあろうに公務員試験を受けてみるかと思ってしまった。急な出費は辛かったが、久しぶりに現れた「明確な目標」に、少しわくわくする自分がいた。

しかし、「解けそうだから受けてみるか」という浅薄な動機で始まったこのプランは、結果的に私の人生を大きく変えていくことになる。そしてもしあの日、公務員試験の「過去問集」を買っていなかったら、私が「科学家」を標榜することもなかったのだが、そのあたりの事情は、また追々。(つづく)

Endnote:
1 「鹿島中興の祖」といわれる鹿島建設の元会長、鹿島守之助(1896-1975)が建てた大型書店。現在は首都圏を中心に約10店舗を展開する書店チェーンとなっている。守之助は、帝大卒業後、まず外交官として出発したが、鹿島家に才能を見込まれて婿養子に入り、戦前戦後を通じて政治家かつ企業経営者として活躍した。同時に彼は文化事業にも関心が深く、自身も国際問題の研究をしており、国際法学会理事、日本国際問題研究所会長などを歴任している。そんな彼は晩年、「わが国で出版されたすべての本を常備する世界一の書店」を夢見て、鹿島建設旧本社跡地に開設を決定、1975年に起工式にこぎつけたが、完成を見ることなく、その半年後に世を去った。1978年9月に竣工した同書店は、地下1階から地上5階の店舗に100万冊の本が集められ、我が国の大型書店の先駆的存在となった。

★2 中世ヨーロッパの大学では、三学(文法学・修辞学・論理学)ならびに四科(算術・幾何・天文学・音楽)の基礎的な科目を履修した上で、医学・法学・神学といったプロフェッショナルになるための知識を学ぶという仕組みができた。このうち三学四科は「自由七科」あるいは「リベラル・アーツ」と呼ばれるが、元々はギリシャ時代の都市国家において自由市民、つまり「奴隷ではない人」として生きるために必要な、基本的かつ共通の知識という概念に淵源がある。日本の大学などでも、これらは「教養課程」と「専門課程」という形で継承されていたが、前世紀後半から、教養課程の縮小や、それらを担当する「教養部」の解体が進んだ。しかし最近では、これが知の分断を加速し、タコツボ化を進めてしまったという反省もあり、新しいタイプの教養教育を再構築しようという動きもある。

★3 筆記試験といえば、「科挙」を連想する人も多いだろう。5世紀の終わりに中国で始まったこの官僚任用試験は、世界最古の試験である。一方西欧では、1219年にボローニャ大学で行われた法学部の試験が最も古いという。しかし科挙が筆記試験であったのに対して、こちらは口頭試験であった。科学史家の中山茂は、そこに「書かれた文化」と「話す文化」の違いがあると指摘している。日本での最古の試験は、8世紀初頭に科挙を真似て作られた「貢挙(くご)の制」というものが知られている。しかし中国の科挙が実質的な官僚任用制度として機能していたのに対し、日本のそれは形式的なものにとどまり、実質的には能力よりも家柄が優先される、世襲制が明治維新まで続いたのである。