科学家のテラス 15
Reflections from an Amateur Scientist 15

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

▼「公僕なんぞ」に… すべてはバブルのせい?
前回は、八重洲ブックセンターで公務員試験の問題集を買ったところまで、であった。すでに本連載で述べてきたように、私はその後、研究室で基礎的な研究のトレーニングを受けつつ、その合間を縫って公務員試験の勉強をした。忙しかったはずだが、不思議と大変だった記憶はない。

ただし当時、「公務員を目指す」というのは、現在とはかなり違う受け止められ方をしていた、ということは確認しておきたい。というのも、本連載9「そしてエスニックな大食事会」の巻でも触れたが、この時期はかの有名な「バブル」に当たっていたからだ。

最近では、バブルという時代そのものが「ネタ化★1」しているが、ともかく「ぼーっとしていると就職してしまう」というような異様な状況であった。民間企業は業績が良いところが多かったが、とりわけ金融・不動産系は我が世の春を謳歌していたから、「XX銀行★2に入れば生涯賃金ウン億だぞ」などと真顔で語る同級生も出現する始末であった。

だから私のような理工系の学生でも、銀行や証券会社などに就職する者は少なくなかったし、正直、「この企業の採用担当者は阿呆なのか?」と思うほど、どこの企業もありとあらゆる手段を使って学生集めに躍起になっていた。

そういう「就職楽勝」の時代に、わざわざ「2度も試験を受けて」「給料の安い」「公僕なんぞ」になろうというのである。さらに自分の場合は理系であって、せっかく数学や物理などの「難しい」勉強をしてきたのに、毎日実験で夜遅くまで研究室に縛られてきたのに、それらの努力を全部反故にして、「文系でも」入れるようなところに就職するのか!?、というような、ポリティカリーにコレクト★3でない言い回しで、批判なさった先輩もいたように記憶している。

そんな否定的な意見もあったわけだが、当時の私の気分は「ちょっとした保険」くらいのもので、要するに信念がないぶん、批判の声も軽く受け流していたのだと思う。

なんと不真面目なことか。若気の至りと言ってしまえばそれまでだが、もし今、そんな若者が目の前に現れたら私は、もっと人生をマジメに考えろと、叱り飛ばすだろう。いや、今の若者は驚異的な低成長時代に育っているから、誰もがもっと地に足が着いているか。だから私たちの世代は「バブル世代★4」などという不名誉なレッテルを貼られたのだろうか。

そういうわけで、実にふわっとした気分で受けた公務員試験であったが、私は特に難もなく、一次試験をパスした。いや、正確に言えば、試験の詳細もよく覚えていないのだ。流石に法律職や経済職の公務員試験ではこうはいかないだろうが、自分の受けてきた全ての試験の中で、もっとも手応えが少なかったのが公務員試験であった。人生の七不思議である。

早速、友人Xから電話があり、私が合格を伝えると彼は興奮して言った。「次はカンチョー訪問だべ。作戦会議やるぞ。資料、集めといてやるからな!」

カンチョー? 私は全く未知の世界に、引きずり込まれようとしていた。(つづく)

Endnote:
1 「ネタ」は、「種(たね)」を逆さにした言葉で、落語や漫才、コントなどのお笑いの脚本・台本のことを指す。1回のセッションで実演されるストーリーをひとまとまりの単位として、「1本、2本」という数詞でかぞえられる。特定の職業や人物、組織、地域や時代などをデフォルメしてストーリーの基軸とすることも多く、その場合はしばしば連作の形態をとる。例えば、刑事と犯人のコントの場合は「刑事ネタ」と呼ばれるわけだが、近年、「バブル時代」を題材としたコント等が散見されるようになった。歴史的に対象化されるほど、遠い過去になったということの証左かもしれない。また「忘れられた」ということは、新たなバブルの発生・崩壊がやってくる予兆でもある。

★2 ご承知の通り、多数存在した都市銀行や長期信用銀行はその後、いくつかが破綻して消滅し、また合併・吸収が繰り返され、現在の姿となった。個人的には、「常識」というものがいかに儚いものか、また、理屈に合わないことは滅びるものだ、ということを学ぶ機会になった。

★3 politically correctあるいはpolitical correctness、PCとも略される。伝統的にアメリカの政治・文化が、「WASP(白人のアングロサクソンで宗教的にプロテスタントのキリスト教徒)の男性」の価値観を基軸に構築されてきたということへの反省から、宗教・人種・信条・性別等におけるマイノリティの立場を尊重し、「政治的に妥当」なものに改めることを目指す姿勢のことである。近年では、その対象が動物や環境など、人間を超えた存在にも広がってきている。一方で、これを単なる「差別用語禁止運動」として、表現の自由を抑圧する行為と捉える者もおり、論争が絶えない。日本でも最近は、この種の問題が左右両側から「炎上」することが増えてきているが、自由とは、平等とは何かという、近代の本質にもつながる、なかなか難しいテーマでもある。

★4 一般に、いわゆるバブル期に就職が内定した世代のことを指す。なぜか、バブルという時代の性質が内面化されているとされ、「見栄っ張りで世渡り上手」などと評されることも多い。しかし当然ながら、学歴によって就職年齢は異なるので、年齢で世代を定義するのは難しい。またそもそも、20世紀後半の日本のバブルというものが、主として金融・不動産業の過度な好況から始まった現象であることを考えれば、そのような、日本のごく一部の企業の被雇用者のメンタリティが、世代全体を規定したと推定するのは妄想としか言いようがない。実際、この世代が就職してすぐにバブルは崩壊し、長い低成長の時代がやってくる。その間に新規採用が著しく抑制された結果、「バブル世代」には長期にわたって部下が非常に少なく、組織の下支えをする役回りを長い間、担わされた。むしろ「永久ヒラ社員世代」とでも呼ぶべきだろう。一方で、バブル時代に現実に交際費等をふんだんに使い、計画性のない愚かな投資を続けて日本経済を破綻させたのは、世代的には、当時すでに企業人として決定権を持っていた「昭和ヒトケタ」や「団塊」など、かなり上の世代である。少なくとも、バブルという時代に対する責任は、どう考えても、いわゆる「バブル世代」には存在しない。