都市の句読点:角打と遊歩
Punctuation Marks of the City: Kakuuchi Style Drinking Culture of Fukuoka

江上賢一郎 Kenichiro Egami

私の住む福岡県には「角打(かくうち)」と呼ばれる種類の酒屋がある。外見はいたって普通の酒屋だが、店内にはカウンターがあり、平日の昼過ぎにもかかわらず近所の人たちでにぎわっている。角打とは、購入した酒をその場で飲むことができる酒屋のことだ。ビールは冷蔵庫から自分で取り出し、酒は注文すると店主がコップに注いでくれる。つまみは缶詰や乾きもの、自家製の小料理がカウンターに並べられている。1000円も出せばすぐにほろ酔い気分になる。法的には曖昧な営業スタイルだが、角打で酒を楽しむ文化は今も北九州を中心に根強く残っている。20世紀初頭、鉄と石炭の街・北九州では、八幡製鐡所をはじめとして昼夜を問わず稼働する工場が数多く存在していた。そして、そこで働く労働者たちは夜勤明けの交代や休憩のわずかな時間に角打に入り、1、2杯注文してさっと飲み干しては次の店に向かう、といった飲み方をして家路についていた。

今でもそれぞれの店には常連のおじさんやおばさんがいて、カウンターで飲んでいるとその土地の街の情景や人びとの姿を生き生きと話してくれる。その土地に生きてきた人たちの声と記憶が、酒とともに聞く側の身体にもゆっくりと染み込んでいく。言葉と身体と酒。ほろ酔い気分で角打と角打をはしごして回るうちに、昔この街に住んでいた人たちの声や姿が路地から浮かんで見えてくるような気分になる。酔いどれつつ歩くことは、都市の経験を変容させる。重たかった足が地上から徐々に離れていき、がんじがらめの街のルールがスルスルとほどけ、自分の身体と街が互いに混じり合っていく。

角打は日々の労働と暮らしのあいだに穿たれた句読点のような場所だ。仕事終わりの一杯の酒は、締め付けるような労働の規律から身体をほぐし、硬い足取りを愉快な「遊歩」に変えてゆく。そして僕たちは、この句読点のなかで想像力を回復させながら、ゆっくりと自分たちの時間のリズムを回復させてゆく。句読点なき都市は、無人工場の延長でしかない。正気の白い光が降り掛かる真昼時、角打から出てきた「遊歩者(フラヌール)」たちはゆらゆらと歩きながら路上の一つ一つのカーブを味わい、二重にぼやけた路地の上でゆっくりとしたダンスを舞い、都市の霊を呼び込む。もし、酔いつつ歩くことが、都市の歴史経験の方法のひとつだとするならば、角打とはそこに生きる/生きた人びとの記憶と出会うための最初の敷居なのかもしれない。