Charta77とチェコ・アンダーグランドカルチャーの地下水脈
Charta77 & Czech Underground Cultural Movement during Communist Regime

江上賢一郎 Kenichiro Egami

「百塔の街」と呼ばれるチェコの美しき都、プラハ。この街を南北に流れるヴルタヴァ川に架かるカレル橋を渡り坂道を登っていくと、赤い屋根の続くプラハの街並みを一望できる王宮前広場に出る。ここにはチェコの政治を代々司ってきたプラハ城がそびえており、その一角に国立美術館(Salm Palace)がある。2018年2月にこの場所を訪れたとき、ふとあるバナーが目にとまった。それは十数名の男女のモノクロ集合写真の展覧会バナーで、「Charta Story & Charter 77 in pictures」というタイトルがついていた。内容は見当もつかなかったが、写真に写っている人びとの不敵な笑みに引き寄せられ美術館に入り、チケットを購入した。展示室に入ると、3つの部屋に古い手紙、モノクロ写真、絵画、手紙などが交互に並べられ、アーカイブとして展示されていた。入り口には「Charta77について」いう説明書きがチェコ語と英語で書かれていた。

「Charta Story」国立美術館のバナー(撮影:江上賢一郎)

「Charta Story」展覧会場(国立美術館 https://www.ngprague.cz/より)

「Charta77(憲章77)」とは、共産主義一党独裁下の1977年、当局によって逮捕、投獄された人々の釈放と人権の遵守を求めた声明文のことだ。後のチェコ共和国初代大統領となった劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルや、詩人のパヴェル・コホウトらが起草し、西ドイツの新聞に発表されたこの宣言は、厳しい社会的抑圧の続くプラハで生まれた市民的不服従の表明だった。憲章77に関わった人々の紹介とともに、その当時のチェコのアンダーグラウンドカルチャーの様子も展示されていた。

実際、「憲章77」が生まれた直接のきっかけは、その前年の76年春にチェコ当局がアンダーグランドで活動するミュージシャン、芸術家たちを逮捕・勾留したことだった。その年の2月、詩人で美術批評家のイヴァン・イロウス(Ivan Jirous)がプラハ郊外で結婚式を挙げた。この結婚式は当時、地下活動をしていたミュージシャンやアーティストたちが一堂に会するイベントでもあった。最も有名なのは、イヴァン自身がディレクターを務めていた「The Plastic People of the Universe」で、68年にベーシストのミラン・ラヴァサ(Milan Hlavsa)によって結成されたサイケデリック・ロックバンドだった。当時、西側の音楽は非合法であり、自由に演奏できる場所は皆無だったが、彼らは地下室、工場などの秘密の場所で演奏を行っていた。フランク・ザッパやベルベット・アンダーグランドに影響を受け、サイケな曲調に共産党やソビエトの全体主義に対するユーモラスかつ皮肉めいた歌詞を加えて、ヴァイオリンやサックス、そしてチェコの民族音楽のリズムを加えた実験的かつ演劇的な演奏を行っていた。

The Plastic People of the Universe (共産主義博物館 http://muzeumkomunismu.cz/cs/より)

イヴァン・イロウス(右から2人目、国立美術館HPより)

展覧会に展示されていたイヴァンの結婚式の写真は、結婚式という名前を借りた無許可フェスティバルの様相を呈していた。ミュージシャンたちは農家の納屋を会場がわりに自由に実験的な演奏をしたり、パフォーマンスを行った。イヴァンは前年に「A Report on the Third Czech Musical Revival」と呼ばれるチェコのアンダーグランドカルチャーについての覚書を地下出版で出している。そこでは、アンダーグランドであることの定義について、美的で創造的な生活の追求、全体主義社会への抵抗の意思、体制から押し付けられた文化の拒否などが簡潔明瞭に書かれており、この手刷りの冊子は当時の芸術家たちによって手渡しで読み継がれていった。彼はまた「druhá kultura(The Second Culture)」と呼ばれる野外のフェスティバルを開催するが、警察によって解散させられ、公序良俗を犯したとして結果的に逮捕されてしまう。

政治家でも、反体制活動家でもないミュージシャンたちを逮捕したことにショックを受けた人々は、彼らの釈放と人権の尊重を要求する「憲章77」を起草し、裁判所前につめかけた。厳しい検閲や圧力にもかかわらず、この声明には241人の知識人、芸術家、聖職者、運動家たちの署名が集まった。声明そのものは反体制というよりも、人権尊重を唱える穏やかなものだった。しかし、当局は署名に加わった人びとを強権的に取り締まり、逮捕、弾圧を行った。哲学者のヤン・パトチカは取り調べ中に亡くなり、多くの人びとがオーストリアや国外に亡命する結果になってしまった。それでも、この「憲章77」は68年の「プラハの春」事件の後、抑圧的な体制に逆戻りしていくチェコ社会において、人々が自由や民主主義を求める声を内部から表明した画期的な出来事であり、89年の民主化への道の発端となっていく。

展覧会は、絵画、写真、映像記録、ポスターなどが展示されており、表には出てこなかった当時のチェコのアンダーグラウンドカルチャーシーンの雰囲気が伝わってくる。皆ロングヘアーで、男性は長いヒゲ、よれよれのシャツとジャケットを身につけている。当時の共産主義政権下では、個人が自由に考えや感情を表現することだけでなく、服装、ヘアースタイルなど個人の身なりそのもの逸脱が危険視されており、ロングヘアーやヒゲを生やすこと自体が、西側以上に切実な社会的異議申し立ての表明でもあった。

特に印象に残っているのは、芸術家たちが頻繁に行っていた秘密の会合、室内パーティの写真だ。自宅や知人の家に毎晩集まり、外では自由に表明することができなかったであろう政治、芸術、社会問題について誰もが豊かな表情で語り合っている。また、郊外のキャンプ場でのコンサートでは、野外に打ち捨てられたドラム缶を叩いて演奏したり、廃屋で即興的なポエトリーリーディングや演劇を行なっていた。個人の家、廃屋、郊外の森など様々な場所が、秘密の表現の場へと姿を変え、パフォーマンス、演奏、インスタレーションなどそれぞれの表現が同居し、混じり合い、不思議な熱気を帯びていた。どんな抑圧的な時代や社会であっても、自由な生と表現を求める人々とその精神の地下水脈が脈々と流れていること。尾行、監視、逮捕、拷問など身に差し迫る危険のなかにあっても、自らの考え、表現を表明していった人々がいたこと。今の日本社会を生きる私にとって、当時のチェコ・アンダーグラウンドカルチャーの姿は、より切迫した意味と重みを伴って伝わってきたのだった。

当時のライブイベントの記録写真(撮影:江上賢一郎)

*The Plastic People of the Universe 1969-1985
https://www.youtube.com/watch?v=YjWzA_kxNqQ