テクノロジーの忘却
Forgotten Technology

宇田川敦史 Atsushi Udagawa

スマートフォンの画面を見ながら、ふと思う。今日はいったい何回ググったのだろうか? 実はこの答え、多くの人は知ることができる。Googleにユーザー登録し、設定をデフォルトのままにしていれば、検索履歴が勝手に記録されているからだ。その記録によると、今日は20回ほど検索していたようだ。単純に平均すれば、1時間に1回以上検索していることになる。

いまや、スマートフォンも、検索エンジンも、日常生活の中であたりまえの存在である。しかしわたしたちは、そのテクノロジーをよく知らない。逆説的だが、日常的に接触しているモノほど、その成り立ちや仕組みは意識されないものなのだ。

もっとも顕著な例が、社会インフラだ。たとえば水道。日本中いたるところに同じような形をした蛇口があり、それをひねれば安全に飲める水が出てくる。日本では水道水の品質は信頼されており、わたしたちは水を飲むとき、いちいち浄水や配管のテクノロジーを考えることはない。

さて、1日にググる回数と、1日に蛇口をひねる回数は、どちらが多いだろうか。スマートフォンを使っている人なら、おそらく、ググる回数のほうが多いのではないか。では、Googleという蛇口から出る水の品質はどうだろう? 日本の水道水と同じくらい信頼できるだろうか? すくなくとも行動の上では、わたしたちは検索エンジンを水道と同じように扱っているようにみえる。つまり、わたしたちは水道の蛇口をひねるくらい日常的に検索ワードを入力し、そこから出てくる水をガブガブ飲んでいる。その水が安全かどうかの根拠はよくわからないが、それ自体を考える前に飲んでしまっているのだ。

Googleが登場して20年ほど経つが、Googleが検索エンジンの事実上の標準となったといえるのは、およそ10年前である(もちろん国や地域によるが)。それ以前のインターネットには、たくさんの検索エンジンがあった。AltaVistaやLycos、Excite、Infoseekなどのアメリカの検索エンジンはもちろん、国内でもgooやNTT DIRECTORY、ODiN、千里眼などがしのぎを削っていた。その頃を知る人にはいずれも懐かしい名前ばかりだろう。

当時は、どの検索エンジンも、十分に信頼されているとはいえなかった。蛇口をひねっても、少しの量しか出てこなかったり、逆に大量の水がとめどなく溢れ出たり、変な色の水が混じったり、とにかく不安定だったのだ。出てくる水が期待どおりでないからこそ、わたしたちはその仕組みを知ろうとしたり改良しようとしたりする。たとえば、この蛇口は水圧に対して配管が細すぎるから、ひねるときはそっとひねろうとか、複数の蛇口をひねってみて、いちばん透明度の高い水を選ぼうとか、テクノロジーに向き合いながら適応していくのだ。実際当時は、「結果がたくさん出過ぎる」検索エンジンには最初から絞り込んだキーワードを入れたり、複数の検索エンジンの結果を見比べるためのツールを自作したり、欲しい情報を得るために、さまざまな工夫をしたものだった。その水が安全かどうかは、自分で判断するしかなかったからだ。草創期のネットユーザーはそんなことをくりかえしながら、いつのまにかそれぞれの検索エンジンのテクノロジーに詳しくなっていたものだった。

しかし今では、Googleという安定した水道ができたおかげで、いつでも適度な量の水が、適切な透明度で、得られる(と信じられる)ようになった。いまや検索エンジンといえばGoogleを指すようになり(Yahoo!の検索もそのエンジンはGoogleである)、「ググる」が動詞になり、それと反比例するかのように、検索エンジンのテクノロジーを意識する機会は減った。「Google以後」にインターネットに触れるようになった世代には、Google以外に検索エンジンがあったこと自体を想像できないかもしれない。それは、水道の草創期を体験していない世代が、水道のオルターナティブを想像することがむずかしいことと同じである。

テクノロジーを忘却しながら、わたしたちはGoogleを使い続ける。ひとたびそれが習慣化すれば、それが信頼できるかどうかの根拠はなくても、水道のように使い続けてしまう。たとえ「信頼しよう」という明確な意志がなくても、これは事実上Googleのテクノロジーを信頼していることと同じである。むしろ、信頼というのは根拠がないからこそ信頼なのだ。

だからといって、Googleを使うのをやめようとか、Googleのアルゴリズムをすべてのユーザーが理解すべきなどと主張するつもりはない。しかし、その習慣的な行動に、根拠がない、ということ自体は知っておくべきだろう。この「無知の知」こそ、メディアとテクノロジーの関係をとらえる入り口になるはずだから。